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認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その(14) コミュニケーションはもう始まっている

 「回想法」をやらなくても、とっくに「回想」は始まっている、と前章で書いた。つまり、少なからず専門的技法をマスターし、時間と空間を特定し、わざわざ老人を呼びたてて、「さぁ回想法を始めましょう」なんてやらなくても、老人の自発的な「回想」は始まっているのだ。風呂場の浴槽の中で、デイサービスの送迎の車の中で、庭での日向ぼっこで、廊下のソファのおばあさん同士のほとんどかみ合っていない“会話”の中で。もちろん、施設に訪問してき た家族との思い出話に、ベッドサイドに置かれた写真立てをきっかけにしたスタッフとの会話の中にも。

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  じつは、この連載のテーマであるコミュニケーションについても、この「回想」と同じことが言えるのだ。つまり、私たちがわざわざ意図的にコミュニケーションしようと思わなくても、すでに老人は私たちに自発的にコミュニケートしているのである。
  ところが老人を治療しようとしている人たちはもちろん、介護する私たちまでそのことに気がついていない。それどころか、それをあってはいけないことだと考え、抑圧さえしているのである。コミュニケーションが大切だと言っているくせに、老人の側からのコミュニケートを拒否し、抑圧しているのだ。それはいったい何か?
 答えは「問題行動」。老人、特に認知症と呼ばれている人の「問題行動」こそ、老人の側からの私たちへの自発的コミュニケーションなのだ。しかし私たちはそうはとらえない。問題行動は「周辺症状」だと教えられている。つまり、認知症という脳の病気にともなう「中核症状」から派生するのが「周辺症状」であり、それは、治療や介護、それも特別な対人関係技術によって解消すべきものだと教えられている。
  しかし「問題行動」は解消すべき、意味のないものなのだろうか。私にはむしろ、認知症老人の自己主張、非言語的な訴えではないかと思えるのだ。「問題行動」「周辺症状」と呼ばれるものそのものに、その主張、訴えが隠されているのではないかと。
  もちろん、どう考えても、そしていろいろ仮説を立てたけど結果的に主張や訴えがあるとは思えない、無意味としか思えない問題行動はいくらもある。しかし、意味がある、ない、どちらであろうが、老人の「問題行動」を、現にそこにあるものとして肯定的に、というより、そうするよりないという半ばあきらめに近いのだが、受けとめるということが大事だと思えるのだ。
 実際、そうした「受けとめ」が、認知症老人をずいぶん落ち着かせるのである。「受けとめ」というのは何かをしているのではない。なにしろ受動的である。それは、何かをするという能動性から免れるということである。つまり、「問題行動」、さらには認知症と呼ばれる老人、さらには、老いそのものをあってはならないものとして、治療し、矯正し、教育し、管理しようとする能動性からである。それらをしないということが「受けとめる」ということではないか。
  専門性をもった人にこそ多い「能動性」による関わりと、それから免れている、一見何もしない「受けとめ」との違いを、老人たちは、じつに見事に見抜くのである。前者には目を閉じて心を開かず、後者の眼差しの中では落ち着いて眠りについたりする。 「べてるの家」は、介護関係者の一部でも語られるようになった精神障害者の運動体である。北海道、日高地方に浦河町という町がある。そこの日赤病院の精神科を退院した人たちが、退院しても行くところがない、することもない、といって町の教会に集まってつくったグループである。
  本誌では、ほぼ1年に1度、施設見学ツアーを実施してきた。北海道の特養ホーム湧愛園が最初で、広島の特養ホーム誠和園、福岡の宅老所よりあい、第2よりあい、広島のデイサービス玄々などなど。
  2年前から、はじめて老人施設以外へのツアーを行っている。それが「べてるの家」である。全国各地で認知症老人のケアを仕事としている人たちが、浦河町で1年1回開かれる「べてる祭り」にぜひ行ってみたいと言い始めたのだ。彼らのいちばんの興味は「べてる祭り」の中の「G.M. 大会」である。
 正式には「GM発表大会」。さて、このGとMとは何のことでしょう、と質問すると、真面目な人はgとmから始まる専門用語を探し始める。ちょっと遊び心のある人は、Gは爺さんかな、なんと考えたりする。
 答えは、Gは幻覚、Mは妄想である。一番すごい幻覚や妄想を発表した人が“優勝”して祝福を受ける。「この人が去年の新人賞です」なんて紹介されたりする。 「べてるの家」に伴走してきた浦河日赤病院の精神科医の川村敏明先生も、同病院のソーシャルワーカーだった向谷地生良さんも、彼らの妄想や幻覚をあってはならないものとして治療してなくそうとしない。ちゃんとつき合い、まるでおもしろがっているようである。
 統合失調症でもそんな考えと実践が出てきたのだ。老人の認知症につき合えない理由なんかないではないか。  
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