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コミュニケーションを大切にしよう、という命題に異議を唱えている人はまずいない。私にも『関係障害論』という本があって「主著」として挙げられることが多くて、これも「コミュニケーションを大切に」という本の一つだと思われているらしい。
セミナーのテーマも「関係づくりの介護」なんてつけているから、これも「コミュニケーション」の流れだと思われている。ま、そう思ってセミナーに参加してくれるのはありがたい話である。勘違いではあるけれど、それほど大きな勘違いというわけでもないからだ。
私は、「コミュニケーションを大切に」なんて言う気はない。そもそもそうした言い方をする人たちにはア・プリオリに、つまりは無前提的に「コミュニケーション」とは何かがわかっているらしい。それが疑問なのである。
まず語られるべきは、コミュニケーションとは何かということだ。まして認知症老人のコミュニケーションとなると、そこから問題を立てていかねばならない。
今私は「認知症老人のコミュニケーション」と書いた。でも一般的なセミナーのテーマはそういう表現はしないだろう。そのほとんどは「認知症老人との コミュニケーション」となっている。
つまり、コミュニケートする主体としての私たちは、これまたア・プリオリにコミュニケーションが可能であると考えられているかのようである。コミュニケーションが不可能、または困難なのは、その私たちが認知症老人を相手にするという特別な場合であると思われているのだ。ここでは認知症老人は私たちからコミュニケートされる対象でしかない。
でも私のテーマは違う。「との」ではなくて「の」である。私が興味があるのは、認知症老人からのコミュニケーションである。それが私たち、つまり非認知症の側に届くかどうか、私たちがそれを受け止める力をもっているかどうかを問うてみたいのだ。
したがってここでは、「コミュニケーション」は自明のものではない。認知症老人のコミュニケーションとは何なのかが問われるからだ。だって私たちがコミュニケーションだとは思っていないもの、たとえば、「問題行動」として排除、抑圧、無視しているものこそが認知症老人のコミュニケーションだとすれば、コミュニケ
ーションを不可能、困難にしているのは私たち、非認知症の側にこそあると言わざるをえなくなる。 |